本記事は、シトロエンの歴史シリーズ三部作の第2期編です。
第1期: アンドレ・シトロエンの時代 – ヨーロッパのヘンリー・フォード
1934 運命の年
1934年はシトロエンにとって運命の年だった。この年の2月、アンドレ・シトロエンは工場の全面刷新のために受けた融資の利子が支払えなくなる。銀行、政府に再融資を申し込むも断られたアンドレは、最大の債権者で大株主でもあるミシュラン・タイヤの会長エドゥアール・ミシュランに助けを求めた。エドゥアールは息子のピエール・ミシュランと、彼の右腕のピエール・ブーランジェのふたりをシトロエンに派遣し、同社存続の可能性を探る。
このとき、シトロエンが開発していたのが、のちに「トラクシオン・アヴァン」の愛称で呼ばれる革新的な前輪駆動車だ。前輪駆動車はすでに世に出ていたけれど、大量生産は世界初。しかも、オール・スチールのモノコック・ボディで、前輪独立懸架、スプリングは前後ともにトーションバーという画期的な技術が投入されていた。
ピエール・ミシュランとブーランジェはトラクシオン・アヴァンが気に入り、生産化を推進する。
1934年10月に発売されたトラクシオン・アヴァンは大ヒットとなり、第2次大戦をはさんで、1957年7月25日に最後の1台がジャヴェル河岸の工場を出るまで、23年と5カ月にわたって生産された。その数75万9123台。当時これほど長く、これほど多く販売されたクルマはT型フォード以外にはなかった。
この革新的前輪駆動車を開発するために、アンドレ・シトロエンが招いたのが、アンドレ・ルフェーブルAndré Lefèbvreである。
ルフェーブルはこのとき39歳。世界初の航空高等学校で「航空エンジニア」の学位を取得したエリートで、第一次世界大戦中はヴォワザンで飛行機の設計に携わった。戦争が終わると、飛行機から自動車の製造に転じたヴォワザンにとどまり、1923年から1931年までに独創的なコンペティション・カーと速度記録挑戦車を設計した。テスト・ドライバーとしても優秀で、1923年にトゥールで開かれたフランス・グランプでは、自身が設計したレーシング・カー「ラボラトワール」を駆って5位に入賞するほどの腕前だった。
ヴォワザンは1929年、アメリカから始まった世界恐慌を乗り切ることができず、ルフェーブルはやむなくルノーに移籍した。ところが、ルフェーブルが提案した前輪駆動車の開発にルイ・ルノーはなんの関心も示さなかった。保守的なルノーとは水が合わなかったのだ。
シトロエンとルフェーブルとの橋渡しをしたのはヴォワザンの創業者ガブリエル・ヴォワザンだった。ルフェーブルはこのフランスの空のパイオニアで、高性能車づくりでも名を馳せた天才から多大な影響を受けていた。ヴォワザンとアンドレ・シトロエンは友人で、トラクシオン・アヴァンの開発が思うに進まないという相談を受けたヴォワザンが16年をともにした愛弟子を紹介したのだ。
ルフェーブルがシトロエンに入社したのは、1933年3月12日。アンドレ・シトロエンがトラクシオン・アヴァンの発表日と定めていた翌年10月のパリ・モーター・ショーまで、残り18カ月に迫っていた。
トラクシオン・アヴァン
研究・開発に専念するため、ルフェーブルは正式な肩書を持たないまま、事実上の開発責任者としてプロジェクトを推進することになる。当初、肩書きのない新参者に反発するエンジニアもいた。ある人物がルフェーブルに、どうして前輪駆動が後輪駆動より好ましいのか、と挑発的に質問した。
ルフェーブルは黙ってポケットからマッチ箱を取り出し、グラス・テーブルの上に置く。彼は質問者にマッチ箱を後ろから押して動かすように言った。マッチ箱はすぐにドリフト。ルフェーブルは次にマッチ箱を前から引っ張ったらどうなるかを示すことで、前輪駆動が直線安定性で優れていることを示した。それから、だれが設計室のリーダーなのか、疑う者はいなくなった。
ルフェーブルは大量生産モデルを設計するのは初めてだったけれど、シトロエンにはその方面では優れたエンジニアがたくさんいた。
ルフェーブルのマネージング・スタイルは当時としてはモダンで、毎朝、エンジニア、製図工らメンバーと短いミーティングを開き、進行具合と問題をチェックした。問題解決のための輪郭を示すと、「だれか、この仕事をやりたいひとは?」とたずね、一方的な指示は出さなかった。
入社して5カ月後、2台のプロトタイプができあがる。アンドレ・シトロエンがそれを見るために妻とともにやってきた。彼女を同行したのは、女性の意見が自動車の購入を左右することを知っていたからだ。マダム・シトロエンは乗降の際のステップがないことに驚いた。必要ないんだよ、と彼女の夫は誇らしげに答える。これぞモノコック・ボディの利点のひとつだった。
走らせてみると、プロトタイプは壊れまくった。それでもルフェーブルは動じなかった。壊れたところは、強化すればよい、とつねづね考えていたからだ。もし、壊れなかったら、頑丈すぎだし、重すぎるということ。重量と剛性、このふたつが彼の最大の関心事だった。
アンドレ・シトロエンはオートマチック・トランスミッションの採用も考えていた。結局、信頼性の低さから、通常の3速ギアボックスに変更された。生産にあたって、前輪駆動ゆえのドライブシャフトのジョイントの耐久性が大きな問題となったが、グレゴワール特許のジョイントを使うことで解決した。
7CVと名づけられたこの革新的前輪駆動車は、1934年4月18日にプレス向けの発表会が開かれた。ルフェーブルのシトロエン入社から、わずか404日。驚異的なスピードだったけれど、アンドレ・シトロエンにとっては遅すぎた。
1934年11月21日、ミシュラン時代が始まる。翌年の3月6日、ピエール・ミシュランは父親のエドゥアールに、アンドレ・シトロエンが工場にこないようにしてほしいという依頼の手紙を書いた。アンドレこそ真の社長だと慕う従業員が多いからだった。
債務を肩代わりしてもらった代償に、自分の名前を冠した会社を失ったアンドレ・シトロエンはこの4カ月後の1935年7月3日、失意のうちに亡くなる。病名は胃がんだったけれど、原因は強いストレスだった。
4輪の着いた傘
1935年12月、アンドレの予期せぬ死から半年後、ピエール・ミシュランは公式に社長に、ピエール・ブーランジェはマネージング・ディレクターに就任する。彼らは社員を2万5000人から、1936年6月には1万1500人にまで削減し、必要ないと判断した出費はすべてカットした。そのなかには、エッフェル塔の電飾広告も含まれていた。パリのショールームも閉鎖し、自動車製造業以外のすべて、タクシー、バス会社、そして保険会社も売り払った。1999年に日産にやってきたカルロス・ゴーンは、60年前のこの出来事を知っていたにちがいない。なにしろ彼は、ミシュランに18年も在籍していた。
ふたりのピエールは、アンドレ・シトロエンの楽観的な生産計画を見直して在庫を減らし、キャッシュ・フローの改善を図った。当初トラクシオン・アヴァン1台つくるのに955時間かかっていたけれど、作業が慣れるに従い、445時間に短縮。これにより価格引き下げを実現した。値下げは販売台数と利益の向上をもたらした。
開発中だったトラクシオン・アヴァンの8気筒モデルはキャンセルされた。それでも、ピエール・ミシュランとアンドレ・ルフェーブルの関係は良好だった。これらの改革は会社の生き残りのためには必要だ。ルフェーブルはそう理解していた。ピエール・ミシュランはしばしば設計室を訪れ、ルフェーブルとおしゃべりを楽しんだ。ルフェーブルより9歳若いピエール・ミシュランは、ルフェーブルと同じ自動車への情熱を持っていた。
そのピエールは1937年12月29日、交通事故で亡くなる。78歳の父親エドゥアールの悲しみはさぞ深かったにちがいない。
TPV(Toute Petite Voiture=超小型車)は、ピエール・ミシュランのあとを継いでシトロエンの社長に就任したピエール・ブーランジェのアイディアから生まれた。
それはまだ彼が社長になる前のこと。ある日、地方の狭い道をドライブしていると、野菜を市場に持っていく農民たちの一輪車や馬、牛に引かせる荷車で行く手を阻まれた。ときには、ものすごく古い、ガタガタの乗用車のリアを改造したピックアップ・トラックも使われていた。このひとたちに必要なのは、彼らにも買える、安くて信頼性の高い自動車だ。ブーランジェはそう考えた。
1937年のシトロエン独自の調査結果も、ブーランジェを後押しした。新車価格は上がっているのに、フランスの平均的な家族の購買力はそのままか、下がっていた。シトロエンの潜在的顧客の6割が1万フラン以下の中古車を買う傾向にあることもわかった。
ブーランジェのアイディアのオリジナリティは、ベーシック・カーは価格が安いだけではなくて、メインテナンスも燃費も経済的で、しかも広々として快適でもあるべきだということだった。まさに必要最低限で、不要な贅沢はいらない、乗り物のミニマリストというべきクルマを彼は望んだ。
「4輪のついた傘をつくってほしい」
ブーランジェはシトロエンのエンジニアにこう依頼した。というのは伝説で、彼の指示書はもうちょっと細かいものだった。
- 4人の大人と 50kg の品物、あるいは、大人2人と200kg の商品が運べる
- 乾燥重量は 400kg 以下。
- エンジンは最も低い税カテゴリーの排気量でなければならない。つまり、2CV。
- 最高巡航速度は60km/hで十分。燃費は、5リッター/100kmを超えない(20km/リッター以上)。
- サスペンションは未舗装路でも走れること。または、畑を通っても、バスケットに入れたタマゴがひとつとして壊れてはならない。
- 農家の奥さんでもマーケットに行けるぐらい運転はイージーでなければならない。
- 生産コストは5000フラン以上になってはならない。
指示書を書くのは簡単だけれど、このようにフツウではないクルマをつくるのは、エンジニアリング上の大きなチャレンジだ。ブーランジェはそう考え、アンドレ・ルフェーブルにこのプロジェクトを任せた。
カルト・カー誕生
時のほとんどの安価なクルマは大型車の縮小版だった。ルフェーブルのコンセプトはそれらとは完璧に異なっていた。軽くて、シンプルにすることで、ベーシック・カーなのにフルサイズの自動車の居住空間を持っていた。
3年後の1939年10月のパリ・モーターショーで発表予定だったTPVは、前輪駆動で、375cc水冷2気筒OHVの水平対向エンジンを備えていた。シャシーとボディはアルミニウム製、重量はドライバーひとりを乗せて465kgという軽さだった。ヘッドライトはひとつだけで、それゆえサイクロプス(ギリシャ神話に出てくるひとつ目の巨人)という愛称がつけられた。
サイクロプスは1939年の夏に250台が生産され、シトロエン2CVとして発表されるはずだった。ところが、パリ・サロンはキャンセルされた。アドルフ・ヒットラーがポーランドに侵攻したからだ。
1944年8月25日、4年の占領期間を経て、パリは解放される。翌年4月30日、ナチス・ドイツ総統のヒットラーがベルリンの総統地下壕で自殺。第二次世界大戦が終結すると、ルフェーブルはドイツ軍に協力した容疑で逮捕された。シトロエンのスタイリスト、フラミニオ・ベルトーニFlaminio Bertoniも監獄のなかだった。トラクシオン・アヴァン以降、デザインの責任者をつとめていた彼はイタリア国籍ゆえに、敵国人扱いされていたのである。
レジスタンス運動の闘士たち、フランス新政府とも強いコネクションを持っていたピエール・ブーランジェはすぐにふたりを監獄から救い出す。しかし、ルフェーブルの容疑は晴れず、シトロエンでの仕事にとりかかることは許されなかった。彼はニースに引っ越し、将来のモデルのプランを練る日々を過ごした。潔白であることがわかると、シトロエンのチーフ・エンジニアとして復帰した。
戦後、TPV、のちの2CVのシャシーとボディはスチール製にすることになる。量産化にはそのほうが簡単だというのが主な理由で、ブーランジェはなにより、アルミニウムの価格高騰を恐れていた。
スチールとなると、戦前型よりも重くなる。そこで、水冷2気筒エンジンを空冷とし、ラジエターのいらない分、軽量化が図られた。空冷にはもうひとつ、それは冬季の凍結を考えなくてもよいというメリットがあった。
空冷フラット・ツインの設計は、ウォルター・ベッキアというイタリア人エンジニアが担当した。
シャシーとボディのスチール化をきっかけに、ルフェーブルは前後関連式の柔軟なサスペンションの再設計を指揮した。
一方、フラミニオ・ベルトーニはより魅力的、よりモダンなカタチに改良し、ヘッドライトは2灯に増やした。
シトロエン2CVは1948年の10月のパリ・モーターショーで披露された。プレスはそのカッコ悪さに衝撃を受けた。観客たちも同様だった。シトロエンの展示車両に乗り込み、シートを試す者もいれば、クルマをゆりかごのように揺らす者もいた。まるで遊戯施設のように扱われた。
世論は、最初のクルマがディーラーにデリバリーされると変わっていった。ブーランジェの希望通り、初期のオウナーたちはシトロエンによって慎重に選ばれた。まずは、農民、自営業、聖職者、助産婦、地方の医者、人気アーティストらに販売された。
2CVはフル生産に入ると、ウェイティング・リストは48カ月以上になった。ブリキのようなボディと、スタンダードのさえないメタル・グレイの色にもかかわらず……。
これは、戦後のフランスの自動車に対する大きな需要があったから、というだけでは説明できない。2CVの経済性とクオリティが、以前は新車を買えなかった多くのひとびとを惹きつけ、やがて常識にとらわれないひとびとのカルト・カーとなり、現在ではコレクターズ・アイテムになっている。
1949年から1990年までに、730万1278台の2CVのサルーンとヴァンが15カ国で生産された。悲しいことにピエール・ブーランジェは彼が構想したベーシック・カーが成功するのを見ることはできなかった。
ロベール・ピュイズー
1940年代後半になると、トラクシオン・アヴァンのモデルチェンジが現実的になってきた。性能やロードホールディングはよいとしても、古臭く見える。1934年からほとんど変わっていないのだから当然だった。
方法はふたつあった。ひとつは、トラクシオン・アヴァンのコンセプトをアップデートする。それには、もっとパワフルなエンジンと、モダンなボディを与えればよい。もうひとつは、白紙からスタートして、まったく新しいクルマを創造するというものだった。
アンドレ・ルフェーブルは、ふたつ目のオプションがいいと強く思った。若返りの時期だと感じていたのだ。
より快適なサスペンション、より軽いステアリング、より高い巡航速度をもち、そしてより低燃費であるべきだ。同時に、よりよいブレーキと、より高い高速安定性を備え、安全性も改良されていなければならない。それにはまったく新しいアプローチを必要とする。
ルフェーブルは、すばらしいアイディアが涸れることはなかったし、説得が上手でもあった。経営をあずかるピエール・ブーランジェはコストが低くおさえられる、最初のアイディアを推していたけれど、結局、ルフェーブルに降参した。しかし、ある条件を提案した。
「少なくとも現在のモデルより製造コストが高くならないように」
1950年11月11日、シトロエンを経営危機から救った男は突如亡くなる。パリからクレルモン・フェランへと向かう運転中、道路から飛び出してしまったのだ。いつも通る道だから、カーブのすべてを知っていたはずだった。居眠りだったのかもしれない。彼は多忙で疲れていただろうから。真相はいまもわからない。ミステリーのままだ。
シトロエンの従業員たちにとって、ピエール・ブーランジェの死は大きなショックだった。シトロエンの大株主、ミシュランのトップのロベール・ピュイズー Robert PuiseuxはシトロエンをGMに売りたがっているという噂があった。この噂は、ピュイズー自身がシトロエンの社長に就任し、ピエール・ベルコットをマネージング・ディレクターに指名することで消えてなくなった。
ピュイズーとルフェーブルは旧知の仲だった。第一次大戦中、ピュイズーはヴォワザンの飛行機工場の実習生で、彼らはそこで出会っていた。のちにピュイズーはエドゥアール・ミシュランの娘アンと結婚、1921年からファミリー・ビジネスであるミシュラン・タイヤで働いていた。最初の業績はタイヤの開発の監修で、これがのちに革命的なミシュランXラジアルにつながっていく。
1937年にエドゥアールの息子のピエール・ミシュランに悲劇が訪れると、エドゥアールは娘婿をミシュラン社の共同ディクレターに指名。1940年8月25日にエドゥアールが亡くなると、ピュイズーは後継者となった。
戦争中、タイヤ・メーカーは天然ゴムが手に入らなかった。その苦境を、ピュイズーは乳母車やレインコート、おもちゃ、バイクで引っ張る小さな荷車などをつくって乗り切り、戦後のミシュランの拡大と革新の時期へとつなげた。第二次世界大戦中、ミシュラン・ファミリーはレジスタンス活動と深くかかわってもいた。
1950年のトラクシオン・アヴァン
ミシュランのゼネラル・マネージャー、そしてシトロエンの大株主として、ピュイズーはパリのブーランジェをしばしば訪問し、いつも設計室のルフェーブルのところに立ち寄って、クルマの話をした。ピュイズーはルフェーブルのファンで、ピュイズーの妻はトラクシオン・アヴァンのカブリオレに乗っていた。
ピュイズーがシトロエンの社長に就任すると、ピエール・ベルコットにトラクシオン・アヴァンの後継車の計画を委ねた。ベルコットはルフェーブルの提案に同意し、ルフェーブルは1934年のトラクシオン・アヴァンを1950年に再びつくる機会を得たのだった。事実上、白紙委任状をもらったルフェーブルは、次のような構想を描いていた。
- サスペンション・システムは快適性の新しいスタンダードとする。
- 軽いけれど、ダイレクトなステアリング。
- 予測可能なハンドリングと優秀な直進安定性。
- 強力でフェードしないブレーキ。
- 頑丈だけれど軽量な(シャシー)構造。
- 広々として明るいインテリア、ゆったりほんわかした快適なシート。
- 高性能と低燃費のための機能的エアロダイナミクス。
- メインテナンスとボディの修復のコスト削減のための新素材の使用。
ルフェーブルは、フラミニオ・ベルトーニに、鉛筆で描いたラフ・スケッチを見せてもいた。それは、最新のジェット機のように滑らかなカタチをしていた。
ベルトーニは当時、自分のスタイリング・スタジオをシトロエン内にもっていた。受賞歴のある彫刻家として、フランスのアート界では知られていた存在になってもいた。それでも彼は自動車のデザインを楽しんでいた。
のちにDSと呼ばれるこのクルマの基本的なコンセプトは2CVにあった。2CVのように、DSはプラットフォーム・タイプのシャシーの上に、前後フェンダーとドア・パネルからなるボディを載せている。それらは取り外しが簡単で、前後関連式の4輪独立サスペンションをもつところも2CVと同じだ。
DSはもちろん、より速くて、より洗練されている。その構造はより精巧でより複雑で、ルフェーブルの初期の構想より、高級市場向けのクルマだった。
ルフェーブルの頭脳はシャシー構造とドライブトレインに集中した。トラクシオン・アヴァンで使ったモノコックではなく、プラットフォーム・シャシーを使おうとルフェーブルが決めたのにはいくつか理由がある。
ひとつは、アメリカのバド社にモノコック・ボディの特許料を払いたくなかった。バド社がルノーと契約して、新しい高級車を開発していることも知られていた。
それに、モノコック構造にはより多くの投資が必要となる。減価償却のために同じボディをより長く生産しなければならない。
一方、プラットフォーム・シャシーを使うと、フェイスリフトや派生ボディ、エステート(ステーションワゴン)などの生産の際、より簡単で、コストをより低く抑えることができる。
軽量化とボディ剛性の追求をあきらめたわけではない。ボディ・パネルにストレスのかからないスケルトン・フレームを考案していた。これはヴォワザンで親しんでいた原理だった。航空機のエンジニア、というルフェーブルの以前の職業が車重の増加を許さなかった。結果として、1955年9月に生産が始まった DS19 の初期型は 1159kg で、1954年のプロトタイプより 68.9kg 重いだけだった。
配管工の悪夢
DSの特徴のひとつであるハイドロ・ニューマチック・サスペンションは、ポール・マジェPaul Megesが開発した。17歳で学校をやめなければならなかったマジェはすべてを独力で学んだ。空気は鉄の500倍の柔軟性をもっていることを発見すると、彼はハイドロ・ニューマチック・サスペンションの研究を始めた。
1944年、2CVのプロトタイプに装着したけれど、20分もたたないうちに壊れた。2CVには高価すぎることも問題だった。ブーランジェはマジェに、大型車用のサスペンションを開発できるかどうか尋ねた。さらに、なぜサスペンションだけ油圧にするのか、と考えた。そして、ステアリング、クラッチ、ギア・チェンジ、ブレーキをアシストする機能をもたせる、セントラル・ハイドロ・ニューマチック・システムに取り組み始めた。
トラクシオン・アヴァンに装着して運転してみると、荒れた路面を吸収し、空飛ぶ絨毯のような乗り心地で、どのシトロエンよりも快適だった。しかも、コーナーではすごく安定していた。
エンジンは水平対向6気筒を新たに開発していた。結局、コストが高くつきすぎるということで見送られ、トラクシオン・アヴァンの直立4気筒に戻ることになった。依然としてOHVだったけれど、ヘッドは新設計で、ブロックは鋳鉄ではなく、熱にすぐれたアルミニウム製とした。
1955年10月6日木曜日朝8時。ブラン・ニューDS19のジャヴェル河岸のシトロエン工場の門を出た。向かう先はパリ・サロンの会場で、運転していたのはマジェだった。
DSはパリ・モーターショーのスターとなった。初日に1万2000台の注文を受け、ショー終了時には8万台に増えていた。
DSは、完全に新しい自動車のコンセプトだった。ストリームラインのスタイリング、パノラミックなウィンドシールド、細いピラー、贅沢感のある柔らかいシート、明るい内装、そして、シングル・スポークのステアリング・ホイール。新しいハイドロ・ニューマチック・システムは斬新さの塊だった。
大絶賛の嵐で幸福感に包まれた経営陣は、生産を急ぎ、すぐさまデリバリーを開始する決断をくだした。しかし、この決断は間違っていた。DSの前例のない、複雑なハイドロ・ニューマティック・システムはまったく新しく、工場のひとたちはそれがどう働くのか、理解していなかったからだ。
初期型の大きな問題のひとつは、血液といえるハイドローリック・フルード(植物性オイルのLHS。のちに鉱物性オイルのLHMに改良される)が漏れてしまうことだった。これが起きると、サスペンションだけでなく、クラッチ、ギア・チェンジ、ブレーキのアシスト、パワー・ステアリングも作動しなくなる。
問題は3つあった。LHSの品質、アッセンブリー・ラインの工員たちのトレーニング不足、そしてジョイント類の品質である。
シトロエン・ディーラーのほとんどのメカニックたちは、これら初期トラブルへの対応方法を知らなかった。ボンネットを開けると、「配管工の悪夢」と呼んだ。最初は、専用オイルのLHSを手に入れることもむずかしかった。
オリーブ・オイル
アンドレ・ルフェーブルの息子のミシェルは1955年当時、シトロエンのテスト・チームに所属しており、最初の生産車の1台でコミカルな体験をした。
カンヌのシトロエン・ディーラーから、最重要VIP顧客からDS19の注文が入ったので、すぐに持ってきてほしいという連絡があり、ミシェルはそれをドライブして南フランスまで届けることになった。当時は高速道路がなかったから、慣れた国道を90km/hで幸せに巡航しながら向かっていた。ところがやがて、サスペンションの調子が悪くなり、それからステアリングが重くなってきた……。
ミシェルは念のためにLHSの缶をトランクに入れていた。それを油圧のリザーバーに継ぎ足して走り続けた。漏れが止まったわけではなかったから、70kmぐらい走ると同じ問題が発生した。次は50kmでまた起きた。缶は空っぽになり、ゆっくり走ってサーヴィス・ステーションに入ったけれど、LHSはまだ売っていなかった。
ミシェルは近くのシトロエン・ディーラーにそこから電話した。ところが、そのディーラーは助けてくれなかった。それからパリに電話してボスに状況を伝えた。するとボスはこう言った。
「近くのスーパーに行って、もっとも純度の高いオリーブ・オイルをいくつか買って、それで走り続けろ」。
オリーブ・オイルのおかげで、ミシェルは目的地に到着できた。カンヌのディーラーでこのことを話したら、彼らにはあまりウケなかった。漏れの箇所を見つけて修理し、オリーブ・オイルの入った油圧システム全体を洗浄しなければならなかったからだ。
納車されたDSがオリーブ・オイルで走ってきたことを、そのVIP顧客が知ったかどうか……。
DSはあまりに革新的だった。それゆえ、工場が計画台数を送り出せるようになるまで、期待されたよりも時間がかかった。結果として、ウェイティング・リストは確実に長くなった。同時に、多くの客が注文を取り消した。
やがて、初期トラブルは解決され、DSは、自動車エンジニアリングにおけるフランス人の発明の才能のシンボルとなった。
シャルル・ド・ゴール大統領が気に入り、ロング・ボディの専用車が製作された。官公庁の公式車両にも採用された。フランス国外でもプレスティージアスなこのシトロエンのクオリテイは知られるようになった。ポール・マジェは、1965年にロールズ・ロイスが新しいシルヴァー・シャドウのサスペンションにシトロエンからライセンスを購入したことを知って喜んだだろう。
DSは、20年の生産期間で、その数はDSと廉価版のID、合わせて145万6115台が送り出された。
アンドレ・ルフェーブルは、1958年に病に倒れ、1964年5月4日に亡くなる。4日前にピクニックを家族と愉しんだ。それは69歳と半年をお祝いするイベントだった。
SM, GS, CX
シトロエンは1962年に年産40万台に迫り、フランス第1位のメーカーに返り咲いた。1965年のフランス国内の市場占有率は30.5%、ヨーロッパでは9.3%に達し、プジョー、ルノーと熾烈なシェア争いを繰り広げた。
1968年3月にはイタリアの名門マゼラーティの経営権を握り、1970年のジュネーブ・ショーでSMをデビューさせる。DSのプラットフォームにマゼラーティ製V6を搭載した、採算度外視の前輪駆動の高性能クーペだ。
半年後のパリ・サロンではGSを発表。DSと2CVの小さからぬ空白を埋めるべく、わずか24カ月という短期間で開発されたGSは、新開発のアルミニウム製空冷水平対向4気筒に、高圧オイルがアシストする4輪ディスク・ブレーキ、ラック&ピニオン・ステアリング、全輪独立ハイドロニューマチック・サスペンションを備え、家族と荷物を満載して、きわめて快適に130km/hで巡航できた。そんな小型車はGS以外になく、高級車の快適性を小型車で実現したGSは専門家からも高い評価を受け、1971年のカー・オブ・ザ・イヤーを受賞している。DSの普及版ともいえるGSは16年間に250万台が生産され、2CVに次ぐ成功作となった。
最後のピュア・シトロエンとなるCXが1974年8月にフランスで発表された。DSの後継モデルとして開発されたCXは、シトロエンとしては初のエンジン横置きを採用した前輪駆動車で、DS、GS同様、ハイドロ・ニューマチック・サスペンションを備えていた。これまた専門家たちから高い評価を受け、1975年のカー・オブ・ザ・イヤー受賞し、9万6900台以上が生産された。ヒット作となったCXは改良を受けつつ、1989年までに104万1560台がつくられた。
時間の流れをやや戻して、1974年、オイル・ショックの影響で、ミシュランはタイヤの売り上げが急激に減少し、窮地に陥った。シトロエンを売却して身軽になることが急務だと判断された。SM、GS、CXと開発費を投入し、生産工場を新設してもいた。シトロエンには莫大な支出がのしかかっていた。
CXの発表を3カ月後に控えた1974年7月、シトロエンはプジョー傘下に入ることになった。ミシュランの時代はあっけなく終わりを告げ、プジョーが89.95%のシトロエン株を取得した。背後には世界的な規模の自動車メーカーをつくりたいというフランス政府の思惑もあった。 国際競争が激しさを増すなか、シトロエンはそれでもシトロエンらしいクルマをつくろうと奮闘することになるのだ。
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