本記事は、シトロエンの歴史シリーズ三部作の第3期編です。
第1期: アンドレ・シトロエンの時代 – ヨーロッパのヘンリー・フォード
第2期: ミシュランの時代 〜アンドレ・ルフェーブルという天才がいた
さようならロベール・オプロン
1970年秋のパリ・サロンで発表したGSの成功もあって、シトロエンは年産60万台に達した。販売台数でプジョーを超え、フランス第2位の自動車メーカーに成長、未来は明るく輝いていた。その明るい未来を、第四次中東戦争をきっかけとするオイルショックが吹き飛ばした。
1960年代のシトロエンは、高級車のDS系とベーシック・カーの2CV系のあいだがすっぽり抜けていた。その空白を埋めるべく、老舗メーカーのパナールを吸収合併し、ロータリー・エンジンの開発を進め、さらに高性能エンジンを手に入れるべく、イタリアの名門マゼラーティを買収した。これらは、みずからの弱点を克服しようという意志のあらわれだった。
好景気のときはそれでよかったけれど、不況に転じると、これらへの投資があだとなり、1974年、シトロエンは2度目の危機を迎える。大量の失業者が出ることを恐れたフランス政府の意向もあって、プジョーとの合併が決定し、マゼラーティは売却、ロータリーの開発は白紙に戻し、徹底した合理化を推進することになる。
PSA(Peugeot Société Anonyme)が株主の時代をシトロエンの第3期だとすると、それは日本の自動車メーカーの台頭もあって激しさを増す国際市場でのシェア争いのなか、いかにシトロエンらしさを維持するかという難題との戦いだった。新しい親会社のプジョーは、もっとフツウの自動車をつくることがシトロエンの生き残る道だと考えた。
先進性と独創性を否定されたシトロエンのエンジニア、社員の一部はやる気を失い、離れていく者たちが続出した。そのなかにはロベール・オプロン Robert Opronの名前もあった。DSのマイナーチェンジに始まり、SM、GS、そしてCXを手がけたことで知られる、スタイル部門の責任者である。
オプロンがシトロエンに入社したのは、1962年、ル・モンドに掲載された「ある大手企業が経験あるデザイナーを求めています」という謎めいた広告に応募したからだった。このときオプロンは30歳。美術大学で学び、航空機の会社を経て、シムカに入社、作品はハッチバックの草分けのシムカ1100として世に出ていた。
仲間内での噂通り、この広告はシトロエンが出したものだった。オプロン自身の回想によると、昼食どきにジャヴェル河岸に呼ばれ、人事部長からフラミニオ・ベルトーニとの面接を別の場所で4時に受けるように、と告げられた。その場所に行って待っていると、4時ちょっと前に古い2CVがやってきて、短パンに汗まみれのベルトーニが飛び出てきた。
ベルトーニはオプロンに、「なんの用かね?」とたずねた。もちろんベルトーニは人事部長から話を聞いており、オプロンが何者なのか知っていた。オプロンがシムカで描いたスケッチの作品集を見せると、ベルトーニはその作品集を床に放り投げ、ステッキでつっつきながら、こう言い放った。
「こんなのはどうでもいい」
フラミニオ・ベルトーニ
ベルトーニは怒って再びステッキでスケッチの作品集を跳ね上げた。オプロンにとっては許せない行為で、彼はためらうことなく、そう告げた。するとベルトーニはオプロンの作品集をひろい、にっこり笑ってこう言った。
「あなたはおもしろいけれどね」
一方のオプロンは、「僕はあなたがおもしろいとは思えない」と返して、その場を去った。家に帰ると、あんなヤツとは絶対に一緒に働きたくない、と妻に伝えた。シトロエンから採用の通知が届いたのは3週間後のことだった。
後日、オプロンがベルトーニにこのときのことをたずねると、「あれはきみの反応を試すためにやったんだ」と答えた。
ベルトーニは冷たいひとに見えたけれど、本当は温かみのあるひとだった。シトロエンに入社すると、オプロンはベルトーニに誘われ、ランチをしばしば一緒にとった。ベルトーニはソロのアーティストで、だれとも相談しなかったし、だれも相談に来なかった。アンドレ・ルフェーブルは1955年にDSを発表すると、その2年後に病気のために引退していた。
ベルトーニと一緒にフランクフルト・ショーに行くことになり、いざ、現地に到着すると、オプロンにこう言った。
「私はショーには行きたくない。あんなものは見るだけ無駄だ。きみは自由にしていいから」
翌日、ベルトーニはひとりで動物園に行き、サルのスケッチをたくさん描いて戻ってきた。いささかエキセントリックなこの異才のもとで、オプロンはDSのマイナーチェンジに取り組んだ。その成果が1968年に登場した、左右グラス・カバー下に2灯のヘッドランプが並ぶ新しいフロント・マスクである。
1965年発表の「ベルフェゴール」という愛称のユニークなデザインのトラックは、ベルトーニとオプロンの共作とされる。
オプロンとベルトーニの関係は2年で終わりを告げた。1964年、ベルトーニはてんかん発作で亡くなってしまったからだ。享年61歳。オプロンは人生の理不尽さを思った。
20世紀で最も才能のある自動車デザイナーのひとり、フラミニオ・ベルトーニは、エレガントなトラクシオン・アヴァン、機能に徹した2 CV、「女神」と讃えられたDS、そして、いささか奇妙なカタチのアミを最後の作品として残した。
救世主 BX
プジョーとの本格的な部品共有化が図られた第1弾、1982年発表のBXは、シトロエニストにも喝采をもって迎えられた。GSの後継となるこの中型4ドア+ハッチバックは、GSの空冷フラット4ではなく、プジョー製の水冷直列4気筒エンジンを横置きする前輪駆動で、プラットフォームはのちに登場するプジョー405と共用していた。
にしても、目に見えるところはBXのオリジナルで、マルチェロ・ガンディーニ時代のベルトーネによるスクウェアで未来的なデザインをまとい、なによりシトロエンの象徴であるハイドロ・ニューマティック・サスペンションを持っていた。
プジョーは当初、405と同様の金属バネとする意向だったけれど、シトロエンの開発部門とフランス全国のディーラーから猛烈な反発があり、譲歩せざるを得なかった。
ボンネット、テールゲート、バンパー、そしてリアクオーター・パネルはプラスティック製で軽量化を図っていた。部品点数についても、GSの部品点数が531点もあるのに対して、BXでは334点に減らすことに成功してもいた。CXにも設定されたディーゼルや、GTの名が与えられた高性能モデルの追加は、プジョーとの合併がもたらした効果だった。
BXは1993年に生産を終了するまでに、12年間で231万5739台が販売され、GSとGSA(GSのハッチバック版)なみのヒット作となった。BXのおかげでシトロエンは消滅の危機から救われた。
1986年に登場したAXは、2CVの後継車として構想された。プジョー205、106とも基本コンポーネンツを共有するこの前輪駆動の小型車は、2CVと較べれば技術的にはオーソドクスだけれど、空力に優れていて軽量で、シトロエンの香りを漂わせる乗り心地と軽快なハンドリングを備えていた。AXは1998年までに累計242万4808台が生産され、少なくとも見た目はシトロエンらしからぬシトロエンの小型車市場における居場所を確実なものとした。
旗艦XMとC6
CXの後継となる旗艦XMは、1989年のフランクフルト・ショーで発表された。BXに続いてベルトーネのデザインをまとったXMは、最高性能モデルにV6エンジンを搭載、ハイドロ・ニューマティックの電子制御版であるハイドラクティブ・サスペンションを装備し、最高速235km/hに達した。
残念ながら、XMはDS、CXのようなヒット作にはならなかった。電気系のトラブルに悩まされ、2000年に生産が終了するまでに、11年間で累計33万3775台にとどまった。
XMの後継のC6は、2005年のジュネーブ・ショーで登場した。XMの消滅から旗艦不在の5年を経ての、シトロエニスト待望のいかにもシトロエンらしい高級車だった。ガソリン、またはディーゼルのV6エンジンを横置きする前輪駆動で、ハイドラクティブ・サスペンション、ヘッドアップ・ディスプレイを装備。CXを思わせるファスバック・スタイルの4ドア・サルーンは最高速230km/hでオートルートを巡航できた。
快適な乗り心地は自動車専門家からも高い評価を受けた。ジャック・シラク、ニコラ・サルコジの両フランス大統領の公用車に採用され、フランスを代表する高級車として2012年まで生産された。いささか短命に終わったのは、年間2万台の計画が達成できなかったからだ。8年間の累計生産台数は2万3400台に過ぎなかった。フランスの高級車市場はもはや圧倒的高性能と高品質を誇るドイツ勢に支配されており、シトロエンが割り込む余地は残っていなかったのである。
それでもPSA時代のシトロエンはAXとBXのあいだにZXを加えるなど、小型車のラインナップを充実させることで成長している。AX、ZX、BXは、その後、サクソ、クサラ、エグザンティアへとそれぞれ改名した次の世代を経て、2002年登場のC3をかわきりに、C4、C5という、アンドレ・シトロエン時代を思わせる名称に変更し、トータルの生産台数を140万台にまで引き上げている。
その後、低迷したものの、2014年、リンダ・ジャクソンがイギリス人の女性として初めてシトロエンのCEOに就任すると、ブランドの見直しを図って、再び勢いを取り戻し、2019年、世界中で創業100周年を祝った。現在はSUV系による、新たな成長を模索している。
ふたたびアンドレ・ルフェーブル
これまで見てきたように、私たちが思い浮かべるシトロエンというのは、アンドレ・ルフェーブルの作品か、あるいはルフェーブルの影響を受けたクルマを指していることがわかる。
なぜルフェーブルはかくも独創的なクルマを生み出すことができたのか?
彼はもともと「航空エンジニア」だった。当時の最先端マシンに関する最先端の技術を学校で学び、1916年にヴォワザンに入社して航空機づくりに参加した。ヴォワザンが第一次大戦後、自動車の製造に転ずると、1923年から1931年までオリジナルかつ際立ったコンペティション・カーと速度記録挑戦車を同社でいくつか設計した。
ヴォワザンの創業者のガブリエル・ヴォワザンは、1908年、ライト兄弟が世界初の動力飛行に成功した5年後に、弟と独力でエンジン付きの飛行機をつくり、平地を動力によって離陸し、1km飛んで旋回、そして着陸したフランスの空のパイオニアだった。
アンドレ・ルフェーブルはそのガブリエル・ヴォワザンから大きな影響を受けていた。多くの自動車エンジニアの関心がエンジンから始まり、加速とスピードに夢中になっていたのに対して、彼らの頭のなかには安全性と信頼性がつねに先にあった。シャシーの動的性能、確実なコントロール性、そしてエアロダイナミクスが優先されていたのだ。
ヴォワザンは安全性と直進安定性の得るための黄金のルールとして、以下の項目をあげており、ルフェーブルもこれらを共有していた。
- エンジンとギアボックスは、ホイールベース内にならなければならない。
- 重心は、ホイールベースの真ん中により前にならなければならない。
- 重心は可能な限り低くなければならない。
- 空力中心(ピッチング・モーメントが変化しないポイント)は、重心の後ろにあるべきである。
- フロント・ホイールのブレーキは、リアより強力でなければならない。
ガブリエル・ヴォワザン
ガブリエル・ヴォワザンはなにものにもとらわれない自由な発想をするひとだった。リヨンで建築家になる勉強を投げ出した彼は、1900年のパリ世界万博で “エオール”を見て、たちまちとりこになった。それは4枚のプロペラを2気筒の蒸気エンジンで駆動するコウモリのような飛行機だった。発明者のクレマン・アデールはこのコウモリのような機械で1890年10月6日、50m以上の距離を、わずか20cmとはいえ“飛んだ”。
空を飛ぶ情熱にとりつかれたヴォワザンは、1904年、グライダーによる試験飛行に成功し、スポンサーを見つけて、ついには飛行機の著名な設計者となる。
1911年にはメタル・フレームの飛行機を発表。ウッドのフレームを使っていたライバルたちは、これをクレイジーだと考えた。ところがヴォワザンの金属の機体は、軍のパイロット養成学校で人気を得た。木製のフレームだと飛行場にひと晩とめておくだけで冷気と湿気で機体がゆがんでしまうのに、メタルはそうならなかった。ウッドと違って調整の必要がなかったから、朝の時間を大幅に節約することができたのだ。
それを別にしても、パイロットたちはヴォワザンの飛行機はたいへん安定していて、予測がしやすく、信頼できると考えていた。
1914年10月、フランス政府はヴォワザンのデザインを空軍の偵察と爆撃をする航空機のスタンダードに選んだ。ヴォワザンは愛国的精神でもってライセンス料を放棄したため、ほかの製造会社でもつくられた。それもあって、終戦までにヴォワザン設計の飛行機1万機が連合軍のパイロットを乗せて飛んだ。この時期、パリ郊外のイシー・レ・ムリノーにあったヴォワザンの工場は、フランスの軍用機のリーディング・カンパニーだった。
いささか余談ながら、ガブリエル・ヴォワザンは、細くて骨張ったダイナミックな男で、強い個性を持っていた。当時の多くの起業家がそうだったように権威を乱用するところがあった。軍隊の練兵係の軍曹のように、従業員を大声で罵倒した。しばしば自分自身も含めてアホ呼ばわりした。悪気はなかった。協力者たちはもちろん、ビジネス上の取引でも率直で、他人を信頼した。
技術面においては天才だった。オーソドックスであることより、奇想を好み、自分の解決方法がベストだ、と信じていた。
ヴォワザンの弱みは、もしそれをそう呼ぶとしたら、女性だった。多くの女性は簡単に彼の魅力に引き込まれた。これがいつも事件の原因をつくり、彼が新たな女性と関係するたびに、複数の女性たちが嫉妬した。
自伝の中で、人生のこの時期、彼はいつもひと晩に3度ディナーをとっていた、と自慢している。2回は未亡人と、1回は妻と。おかげで散財したけれど、ちっとも太らなかった。
水とシャンパーニュ
ルフェーブルはヴォワザンで新型飛行機の設計と製造にかかわり、有能な技術者であるだけでなく、生まれながらのリーダーであることを証明した。同僚たちにやるべきことと、なぜそれをやるのかを説得できる天与の才能を持っていた。
ガブリエル・ヴォワザンは彼の能力にすぐに気がつき、パトロン(ボス)と従業員の関係を超えて終生の友情を結び、美しきマシンへの情熱を分かち合った。
第一次大戦後、ヴォワザンがクルマづくりに転じると、ふたりはよく一緒にロード・テストに出かけた。技術的な問題が起きると、道端でせっせと修理した。開発中のクルマの弱点が他人に知られてしまうことを恐れたガブリエル・ヴォワザンが、地方のガレージ(修理工場)に行くのを拒否したからだ。
週末になると、パリからカンヌまでぶっ飛ばすこともあった。カンヌにはヴォワザンのボートがあった。コート・ダジュールで女の子をナンパしては、そのボートで地中海のクルーズを楽しむと、本拠地までレースのごとくにぶっ飛ばして帰った。ガブリエル・ヴォワザンの自伝によると、950kmを12時間以内で走った。もちろん高速道路があるはずもなく、当時の未舗装路面を、街道沿いの村々を通過しつつ、アルプス越えもして、平均80km/h近くを維持したことになる。
しかるに、これはホラではなかった。1921年4月6日、ドミニク・ランバージャックというドライバーが4リッターのヴォワザンC1でパリからニースまで11時間30分40秒で走ったという正式な記録が残っているのだ。これは6.6リッターのイスパノ・スイザ32CVでつくられたレコードよりも速く、ヴォワザンはたちまちにして高性能高級車の仲間入りを果たした。ヴォワザンとルフェーブルは飛行機の設計で得た知識に加え、みずからロード・テストを徹底的に行うことにより、驚くべき速さで自動車づくりを学んだ。
第3期とは関係のない余談を長々と続けたのは、スピードと冒険のロマンティックな時代がかつてあった、ということを申し上げたかった。
アンドレ・ルフェーブルは「翼のない飛行機」をつくろうとした。そう考えると、彼がつくったシトロエンのドライビング感覚は合点がいくのではあるまいか。
ルフェーブルは、飲み物は水とシャンパーニュ以外は口にしなかった。2CVを水、DSをシャンパーニュだとするなら、私たちシトロエニストがいまも望んでいるのはまさにそんなクルマたちであるにちがいない。